養蚕農家と機織りの音——伊勢崎で育った私の記憶

養蚕農家と機織りの音——伊勢崎で育った私の記憶

私(MEISENNEプロデューサー兼デザイナー)は群馬県伊勢崎市の生まれです。大学入学と同時に都心に出て東京ライフを楽しんでいたものの、人生の紆余曲折を経て、約10年前に、生まれ故郷の伊勢崎に戻ってくることになりました。そして今や、どっぷり伊勢崎ライフを楽しんでいます。伊勢崎の歴史や地域資源に目を向けて興味が出始めたのも、伊勢崎に戻ってきてからのこと。

伊勢崎の織物文化がどう栄え、どう衰退していったか——その歴史については、以前の記事でお話ししました。今回は、その歴史の続きを生きた女性の記憶についてお話ししたいと思います。
私の祖母と、私自身のことです。


あたり一面が桑畑だった、伊勢崎の風景

「元々伊勢崎一帯はは一面が桑畑だった」と92歳の叔父から聞いています。今ではすっかり住宅地に変わってしまった場所も、かつては蚕のための桑の葉でいっぱいだったそうです。伊勢崎という土地が、絹織物のために、まちごと作られていた時代があったのです。

私の祖母の家も、昔は養蚕をしていました。古い日本家屋の2階には、養蚕農家特有のつくりが今も残っています。仕切りのない広い空間に、採光と換気のための大きな窓、そして高い天井。蚕を効率よく育てるための、機能的でありながら開放的な造りです。蚕室として使われていたその空間は、当時の暮らしが織物と密接に結びついていたことを、今でも静かに物語っています。

その家は今も建っていますが、もうずいぶんと古びて、廃墟のようになってしまいました。誰も住まなくなった蚕室に、かつての賑わいを想像することはできても、もう声は聞こえません。


裏庭に響いていた、機織りの音

祖母の家の裏庭には、機織り場がありました。近所に住んでいたおじいさん夫婦が、そこで機織りをしていたのです。記憶をたどると、高機を使った手織りというよりは、機織りの機械が2台、稼働していたように思います。

作業場に行くと、機械が高速で動いて布を織っていました。記憶の中のその場所は、ガシャンガシャンという大きな音に包まれていて、近くを通るたびにいつも織物の音が響いていました。子どもだった私にとって、それは少し怖いような、けれど確かに「この土地らしい」音でした。


祖母と、紺地の紬

99歳という大往生で、7年前に亡くなった祖母は、足腰が弱って帯を締められなくなる前まで、普段から着物を着る人でした。紺地の紬を好んで着ていて、たぶんそれは大島紬だったと思います。特別な日だけでなく、ふだんの暮らしの中で、当たり前のように着物に袖を通していました。

面白いことに、祖母は伊勢崎銘仙を着てはいませんでした。伊勢崎銘仙のあの大胆で華やかな柄は、伊勢崎で暮らす人たちにとっては、むしろ少し派手すぎるものだったのかもしれません。銘仙は、地元の人が日常的に着るものというよりは、京都や東京など、まちの外へ向けて売り出すための、いわばビジネスとしての着物だったのだろうと思います。地元では落ち着いた紬や縞ものが好まれ、華やかな銘仙はよそで愛された——そんなねじれた関係も、産地ならではの面白さなのかもしれません。

祖母が亡くなるとき、その着物も一緒に棺に納めました。きっと今も、天国でその着物を着ているのだろうと、私は思っています。


身近にあった、着物のある暮らし

私自身はあまり着物を着る人間ではなく、たまに着る程度です。けれど、桑畑だった土地に、養蚕農家のつくりの家、機織りの音が響く裏庭、そして着物を着て過ごす祖母——そんな環境で育った私にとって、着物は遠い世界のものではなく、ずっと身近な存在でした。

自分では袖を通さなくても、着物が当たり前にある暮らしを知っている。それは、私がMEISENNEというブランドをつくるうえで、気づかないうちに大きな土台になっていたのだと思います。

廃墟になった蚕室と、棺に納めた紺の紬。失われていくものと、心の中にずっと残っているもの。MEISENNEは、そのどちらの記憶からも生まれています。

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